このブログについて

さて、この度ブログを始めることになった私ですが、

このブログは読み手のことをあまり意識しないで書こうと思います。

 

ブログを始めるにあたって、書き手の目的はそれぞれあると思いますが、

私の場合一番の目的を自分の頭の中のアウトプットと定めています。

 

ここ数日、ブログを始めるにあたっていろいろ調べました。

広告収入だとか、アクセス数を増やす方法だとか、読みやすいブログだとか...

 

ものの数分でやる気なくしちゃいました!

 

考え事は好きで、

それのアウトプットという自分の好きなことをしようとしていたのに、

嫌に感じるということで目的が倒錯し始めてることに気付きました。

 

そもそも、広告は運営が張る分だけで、自分への収入は一切なくていいと思ってたし、

それならわざわざこのブログを読んでもらうための努力もいらないです。

 

ブログはこういうものだという先入観に毒されかけてましたね!

 

そういうことで、気が向いたらテキトーに更新していこうと思ってます。

 

ただ、それならノートにでも書けばいいじゃないかって話ですよね...

自分もノートでいいかなって迷ってたんですが、

そのノート見られたら恥ずかしいじゃないですか///

それとは別に、公開してたら似たような考えを持った友人ができないかなって淡い期待をもって公開することにしました。

 

自分へのメモといってもいいようなブログで、

役立つ情報を発信しようなどと崇高な目的のないものですが、

読んでくれるもの好きな方はどうぞよろしくお願いします。

努力狂信者に告ぐ

多くの人が、努力とは、嫌なことを苦しみながらもがんばること

というようなニュアンスで用いている気がします。

 

風呂に入るのが好きな人が、3時間風呂に入ってたら、

それは努力といえるでしょうか?

多くの人の答えは「ノー」でしょう。

 

勉強が嫌いな人が毎日朝から晩まで勉強してました。

これならどうでしょう。

きっとこれは誰もが認める努力でしょう。

 

では、勉強が好きな人が、毎日朝から晩まで勉強したならどうでしょう?

調べてみると、一部の人は、

好きなことをするだけだったら一切苦しい思いをしてないから努力とは言えない

と答えるようです。

 

はてさて、努力とはいったい何なのでしょうか?

Wikipediaによると、

【努力(どりょく)とは、目標を実現するために、身体を使ってつとめること。】

とあります。

 

この定義からすると、努力とは、好き、嫌いにかかわらず、

苦痛の大小にもかかわらず、

目標達成への行動をどれほど適切にとったかで決まるものと解釈できる。

 

失敗した人を、努力しない人、頑張らない人などと平気で言う人、

苦しむことを努力であるとはき違える日本語も理解できない低能が

偉そうな顔して他人を評価するから世の中が息苦しくなる。

 

そんな人たちがうつ病は甘えなどとほざき、

まじめで逃げることができなかった人たちが死んでいく。

 

嫌な世の中です...

 

まあ努力を美化しすぎた世間にも責任はあると思いますがね。

 

このように他人に努力努力言う人は、

きっと自分より劣った人を「頑張りが足りない人」に据えて、

自分を「頑張った人」にすることで安心してる臆病な人だと思います。

 

頑張ったかどうかなんて他人に言われることじゃないし、

「努力」の対象となる目標は人それぞれなので、

本来努力について他人に口出しすること自体ナンセンスです。

 

ですので、頑張りだの努力だのを他人に向かって押し付けたり批判してばかりの

頭のおかしい連中の言葉に傷ついたり、自己嫌悪したりするのは間違いです。

 

がんばらない、大いに結構。

 

自分の人生、自分の好きなように行きたいものです。

 

 

 

 

幸福は相対的なものなのか

前回の記事は、人の目を気にして幸せを定義するのはやめよう

といった内容のものでしたが、

日常生活を送る中で、他人と比較をすることはどうしても避けられないでしょう。

 

掃除が好きとか、ぼーっとするのが好きとかいった特殊な例なら

比較はほとんどしなくて済みますが、

 

テストで上位になるのが好きだとか、お金を貯めることが好きだとか、

いい大学、会社に入ることで幸せを感じる人は

やはり何かしらの比較をすることになるでしょう。

 

比較をして自分を成長させるモチベーションにできる人はいいですが、

比較するたびに劣等感に打ちひしがれる人は生きづらいと思います。

 

死に物狂いで今いるコミュニティーで1番になったとしても、

さらに大きい集団では通用しなかったり、

さらに上を見てみると、日本、そして世界で1番になるのは困難でしょう。

だからと言って世界1以外は無駄だと考えるのは愚かしい。

 

他人と比べて幸せを判断するのは生きている以上避けられませんが、

手の届かないとこばっかり見て苦しむ人は

いっそ今の状況を幸せだと思ってみましょう。

 

ちょっと視点を変えてみると、幸せは案外身近にたくさんあります。

 

現在の日本では、多くの人が衣食住に不自由なく、

道を歩いていて急に命を落としたりはしません。

当たり前のことです。そう、当たり前のこと。

 

しかし紛争地帯の人からしたら、その当たり前が、喉から手が出るほど欲しい

「幸福」であるかもしれません。

世界人口からしたらその「当たり前」を享受できる人のほうが少ないんです。

 

自分の周りが普通にできていることはできて当たり前、

できないと不幸、だから幸せになるには周りよりももっといい思いをしないといけない

なーんて考えじゃ身近な幸せにも気づけないですよ。

 

多くの幸せは人との比較の上に、相対的に成り立っていますが、

その比較に苦しむのではなく、

「幸せの相対性」を身近な幸せを見つける手段としてほしいものです。

 

 

 

 

 

人は幸せになりたいのか、幸せだと思われたいのか

SNSが普及し、他人の生活がかんたんに見えてしまう現代...

自分の幸せの本質を見失う人が増えてきている気がします。

 

「幸せになりたい」という気持ちは多くの人にあるでしょうが、

「私って幸せでしょ?」ってなかんじで

他人に自分が幸せであることを確認してもらってはじめて

自分が幸せであることを実感する人が現代には多いのではないでしょうか?

 

それってきつくないですか?

 

なにかにつけて他人の評価が付きまとう...

自分の好きなことをやってても他人を気にしてしまう...

そんな人って誰の人生を生きてるんでしょうね?

 

逆に、幸せを自分でしっかり定義し、「自分専用」の幸せを追い求める

それについて他人がどう言おうがブレない

そんな人はこのご時世でも生きやすいんじゃないでしょうか。

 

私の場合、幼稚園生のころ、植物や恐竜の名前や特性を暗記することに

幸せを見出していました。(笑)

 

テレビゲームなど、一般的に楽しいとされているものよりも好きだったんです。

植物ですよ!植物!

ふつうは覚えるとなると苦痛に感じる人が多でしょ!

 

それでも当時の私にとっては楽しかったんです。

そこに他人の評価の介在する余地はありませんでした。

 

人はみんな違うんだから、幸せは人間の数だけ種類があると思います。

テスト勉強が好きな人、独りが好きな人、疲れ果てるまで働きたい人、

掃除が好きな人、などなど、なんでもアリです。

 

好きなこと、幸せを感じることがすべての人間で共通なはずがないのです。

 

現在の日本は、同調圧力といいますか、画一化といいますか

みんなが「いい」とするもの、「嫌だ」に思うものは

自分も同じように評価しないとおかしいといった雰囲気があります。

 

みんなと同じで居心地いいと思う人間ならそれでよいのでしょうが、

そういった雰囲気に息苦しさを感じるなら、いったん周りのことは置いといて

自分は何に幸せを感じるのか、じっくりと自問してみましょう。

 

自分が本当に幸せに感じられることに出会ったなら、

もうあなたは最強です。

 

もう幸せになるのに他人の評価は必要ないし、

したいことするとき人の目におびえなくていい。

 

だいたい他人の幸せなんて誰も気にしてませんって

数日後には忘れてるし、見え張って幸せアピールしてもむなしいだけじゃないですか?

 

ぜひとも、幸せだと思われるための努力なんて捨て去って、

自分だけの幸せを見つけちゃってくださいね。